【お笑い各駅停車】第3回 本当にクリエイティブなキャラ芸とは何か~岸大介と女キャッチャーの大冒険

 

 悲しみの臨時号を見送って気は済んだ。
 あまりに長い秋雨とか、杉作J太郎先生のラジオ(南海放送)とか台風とか衆議院議員総選挙とか、いろいろなことにちょっとずつ関与しながら各駅停車のことを考え続けていたら、キャラ芸のことはもうそんなにダラダラ書かなくていいのではないか、と思うようになってしまった。今回はなるべく手短に、自分の好きなキャラ芸を紹介して終わりたいと思います。


 数年前から、『ロバート秋山のクリエイターズ・ファイル』とか、フジテレビの『超ハマる!爆笑キャラパレード』をチラチラ目にすることがあって、キャラ芸のことはなんとなくずっと気になっていた。クリエイターズ・ファイルもキャラパレードも確かにおもしろいのだけれど、ああいうのを見ていると、自分が好きなキャラ芸はこれじゃない…という変な胸騒ぎがする。
 私が本当に好きなのは、血眼で探し出して捕まえたキャラの擬態を見せつけられることではなく、神様の気まぐれとしか思えないくらい唐突に、しかし厳然とその芸人を選んで降ってきたような、後光を背負ったキャラの降臨を拝むことだ。


 あらゆる業界の偉人が天才型と秀才型に分類されることがあるけれど、キャラ芸の世界でもそういうことはあるかもしれない。


 どうがんばっても偉人になることのない凡才型のキャラ芸は、実在する変な人物の雑なモノマネとか、どこかで見たようなあるあるの寄せ集めでできている。凡人は、とある風変わりな人物の描写をするときに、その人物がなぜそんな風貌で奇妙な言動をとるのか、理解していないし理解しようともしないまま、そこそこキャッチーでおかしげな表層だけを無邪気に剽窃する。そしてそれをウケ狙いのための便利な記号として利用できたという、ただそれだけのことでもう満足してしまう。まったく、それ以上でもそれ以下でもない。

 しかし、秀才型の偉人はキャラ芸に意味を持たせる。とてつもなく勉強熱心な彼らのやりかたは途中まで、優秀で底意地の悪い批評家のそれと同じに見える。
 素材(ネタ元となる人物)をしっかり観察し、吟味しながらキャラ憑依のための突破口を探る。そして憑依がキマったあとは、それをうまく飼い慣らして自身の芸の世界観に適応させていき、よりクレイジーで過剰な存在へと強制的に進化させるのだ。

 例えば友近の持ちキャラ「水谷千重子」は演歌歌手の小林幸子をモデルにしている、といわれるけれど、けして小林幸子色一色で構成されているわけではない。*1小林以外の歌手や女優の特徴、友近自身が彼女らに抱く憧憬と嫉妬、自分はどうがんばっても本物の歌手や女優(あるいは本物の変人)にはなれないことへの怨念などが複雑に絡まりあって、水谷千重子というキャラクターの珍奇な陰翳が生まれている。

 また、キャラ芸人の筆頭としてしばしば友近とタッグを組むロバート秋山は、この世界に蔓延する、ありとあらゆる種類の「胡散臭さ」というものを感知する嗅覚が異常に発達しており、その「胡散臭さ」だけに焦点を絞ったような素材選び*2は、誰よりもスピーディーで戦略的だ。そして、選んだ素材のビジュアルイメージを丁寧かつ直接的に模倣してくれるので、誰にでもわかりやすくて、リアルなウザさを持った現代的なキャラをあれだけ量産できるのだと思う。


 そんな中、岸大介と女キャッチャーは、前述の有象無象とはぜんぜん別の場所に立っている。彼らは、量産体制の整った工場みたいなキャラ芸世界の彼岸にいて、記号のつまらなさも、意味のいやらしさも超越した存在として、こちら側の世界を悠然と眺めている。嫉妬も劣等感も憎しみも飲み込んだうえで、それでも最後はかすかにやさしい笑いに昇華させたいというような、そのまなざしには醜い攻撃性などがなく、慈悲深さすら浮かんでいるように見える。


 天才の人たちは自我のクセがすごすぎて、他人のモノマネがうまくできない。他の人みたいになりたくても、どうしてもそれがうまくできないのだ。そういう状況は少なからず苦しみを伴うものだと思うけれど、その絶対的な孤独の苦しみを乗り越えて彼らが到達した場所は、あまりにも高いところにあって、あまりにも尊い。そこから見える景色を、彼らが面倒がらず丁寧に再構築して差し出してくれるような芸能を見るとき、私はこの世のすべての人間が無差別に肯定されたような、とても幸せな気持ちになるのだった。

 

 


オールザッツ13 キャラまとめ 岸大介(1:26頃~)

 


守谷日和 女キャッチャー オールザッツ漫才2016 女キャッチャーの日

*1:ネアカな振る舞いや髪型(メッシュとシャギーを多用したエアリーショート)は確かに小林幸子みたいだけど、あの特徴的な喋り方(かん高くて粘っこくて、ごくわずかに語尾が上がる)は限りなく仁支川峰子(旧芸名:西川峰子)に近い。こんなに喋り方が似ているのに、私は水谷千重子仁支川峰子について言及しているのをまったく聞いたことがない。似ているのは偶然なのだろうか。

*2:実在のクリエイターとか、スピリチュアル系の人たち。

【お笑い各駅停車】臨時急行 保毛尾田保毛男氏のエレガンスと、その終焉

 

 誰からも執筆を依頼されていないのに一人でシリーズ化を決めた【お笑い各駅停車】の第3回目は、いわゆる「キャラ芸」のことを書こうと思っていた。思ってはいたものの、日常生活の合間になんとなく構想を練るだけで実際には一文字も書けないまま、何週間もグズグズしていた。書きたいことのエッセンスは頭の中にじゅうぶん詰まっているはずなのに、それを言語化する際の、あのとてつもない億劫さに向き合う勇気を持てないまま、9月の風だけが私の中を通り過ぎていった。

 そんな怠惰な私をあざ笑うかのように、現実の世界ではいつも否応なしに事物が動き、日々新しい観念が生まれ続けている。そして今回もそれは起こった。

 

フジテレビ番組の同性愛キャラクター LGBT団体が抗議
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170929/k10011161751000.html

 

 それというのは、約30年ほど前に人気を博した、あの伝説のキャラクター「保毛尾田保毛男」の復活をめぐる騒動のことである。自分が相変わらずぼんやり生きている間にも、様々な立場の人が立ち止まることなく、忙しく動いたり声を発したりしながら、現実の世界を再構築し続けていた。そして気がつくと、私が子どもの頃に愛したあの心優しい「保毛尾田保毛男」が時代を超えて掘り起こされ、ゲイ差別を象徴する醜悪で忌々しいモンスターとして、あっという間に吊し上げられていたのだ。

 

 「保毛尾田保毛男」が放送されたことによって、実際に傷ついた当事者がたくさんいるのだという。自分がかつて愛したキャラクターが、巡り巡って誰かを傷つけていたという事実を突き付けられて、私は端的に、とても寂しかった。寂しかったし、どこかに拭いきれない違和感もあった。
 本当にあの「保毛尾田保毛男」は、ゲイを揶揄するためだけの、気持ち悪さを誇張する表層をなぞっただけの、道具みたいなキャラクターだったのだろうか。

 

 私がキャラ芸のことを考えるうえで、今回の騒動と、私の中の「保毛尾田保毛男」の存在を無視することは到底できないと思った。今回ばかりは各駅停車の平和な旅、というわけにもいかない。臨時列車で大きな駅を目指さなければならなかった。

 

―――――

 

 しかしながら事の発端は、何のおもしろみもない、ささやかなものだったと思う。
 ニュースの文中にあるような、「同性愛をネタに共演者とやり取りするシーン」というのは、確かに28年前の「保毛尾田保毛男」コントの根幹となるものだったが、先日の特番でそれが文字通り「復活」していたかというと、けしてそんなことはなかった。かつて一世を風靡した「伝説のキャラ」に、もう一度息を吹き込んでみせるような確かな気概も覚悟もないままに、30周年記念と称してだらしなく過去のコスプレをしてみせるだけのあれは、私にとって別の意味で本当にひどい、死体転がしみたいにひどい番組だった。


 9月28日に放送された「とんねるずのみなさんのおかげでした30周年記念SP」の中で、保毛尾田保毛男が目立った活躍をする場面はない。コーナーゲストのビートたけしが「鬼瓦権蔵」、相方の木梨憲武が「木梨ノリ子」という、各人の代表的な持ちキャラの扮装で登場する並びの一環として、石橋貴明はかつての持ちキャラのひとつである「保毛尾田保毛男」の扮装をしていたに過ぎない。30周年だということ以外に特に意味もなく、「昔懐かしの、あのキャラの格好をしてみましたよ」、みたいな軽いノリだ。
 そしてそういう扮装をして彼らが雁首そろえてやることは、よりにもよって「アポなし街ぶらロケ」などという、バカみたいに安上がりでいまさら何の目新しさもない、目を覆いたくなるほどヌルすぎる企画なのだった。そんなヌルい街ぶらロケの最中に、「同性愛をネタに共演者とやり取りする」なんていう、複雑でハイリスクな芸を全うする余地などなく、石橋は冒頭の登場シーンでこそ保毛男キャラを軽めに演じてはいたが、お約束のやり取り*1をサラッとひとなぞりしたあとは、そそくさとキャラを放棄して素の石橋に戻り、ロケのヌルさの中に淡々と溶けていくばかりだった。

 これが、2017年のフジテレビが作るバラエティ番組の現実だ。予算と労力をかけたちゃんとしたスタジオセットの中で、出演者とスタッフが一丸となって知恵を絞りながら世界観を作り上げていたような、黄金期のコントの現場とはわけが違うのだ。

 かつて、スタジオの中であんなにイキイキと輝いていたキャラクターたちが、こんなにもノープランで中途半端なやり方で、安易な数字稼ぎの小道具として銀座の路上にいきなり放り出されるなんて、私は思ってもいなかった。まったくひどすぎる、目も当てられないほど悲惨なありさまだった。
 予算も優秀なスタッフも自らの若い活力も、キャラを演じきるための各種リソースの何もかもを失った大御所芸人たちは、もはや栄華を誇った過去のコスプレをしているだけの、普通につまらない人になっていた。笑えるところなんてあるはずもない。
 全体的に、ノスタルジーと現代性の悪いところだけを混ぜてできあがったような、安くて何の工夫もない痛々しいロケを見せつけられて、私はただただ気分が悪かった。

 「こんな雑な現場に、あんなに優しくて上品でユニークだった保毛尾田保毛男をいまさら引きずり出すなんて…」
 私は、他の誰にも理解されないような、自分でも意外なほどの絶望の極みの中で言葉を失い、たった一人で静かに心を閉じることしかできなかった。そしてずっと昔に私の中にいた、あのもっとも輝いていた頃の保毛尾田保毛男氏を、私だけのために召還することにした。

 

 今回の騒動を受けて、あらためて「保毛尾田保毛男」の原典にあたった人はどれほどいるだろう。かくいう私も、当時のVTRを個人的に保有しているようなマニアの人ではないので、youtubeにアップされている動画をかろうじて数本見ることができた程度だった。そしてその動画を見ることも、当初はなんとなく怖くてなかなか気が進まなかった。
 過去のVTRを検証するよりも前に、夫(夫は「保毛尾田保毛男」コントを見たことがない)に「私は『保毛尾田保毛男』コントがけっこう好きだったから今回のことが寂しい」という話をしたら、「子どもの頃に好きだったものは美化しちゃうから、大人になったいま見てみたら意外とガッカリするかもしれないよ」と言われていたからだ。本当にそうかもしれない。いま見返したらヘドが出るような差別表現を、バカな子どもだった私が無思慮に支持してしまっていただけなのかもしれない。

 幼い自分の中にあったかもしれない無邪気な差別感情を、いまさらわざわざ確認しに行くことは恐ろしかったが、自分が保毛男のことを好きだった理由は、嘲笑とか、そういう単純な言葉で表せるものではなかったはずだ。私の中にある保毛男への好意が何によるものだったのか、そのかすかな記憶の源を訪ねたい気持ちも同時に強くあり、数日の逡巡を経てから、覚悟を決めて昔の保毛男に会うことにしたのだった。

 結果として、そこには私が好きだった、あの日の記憶通りにエレガントでチャーミングな保毛尾田保毛男氏がいた。保毛男を取り巻く他のキャラクター*2や背景設定を含めたコントとしての完成度も申し分なく、本当にとてもおもしろかった。むしろ大人になった現在は、子どもの頃には意味を理解していなかった細部の作り込みまでちゃんと理解することができて、この名作コントの奥行きが自分の想定以上だったことにあらためて気づかされた。保毛男のことが好きだった記憶を美化していたかもしれない…なんていう心配とはまったく逆方向の、うれしい驚きだった。

 

 ただ、ここでひとつ白状しておかないといけないのは、自分の性的な立ち位置のことだ。この文章を読んでいる人に自分のセクシュアリティを説明しないままでは、本当に言いたいことが伝わらないような気がする。

 私はそもそも保毛尾田保毛男に限らず、昔は「オカマ」と一括りにされたような女性性の強い男の人が大好きなタイプの女である。誤解されるといけないのでさらに補足すると、例えば東京に住んでいて、そこそこ稼ぎのある身分の女の人たちが新宿2丁目に足しげく通うことがあるらしい、と噂に聞くけれど、そういう女の人たちが「本当の女よりも自分にとって都合のいいオンナ友だち(女としてのマウンティング合戦をしなくていいけど女心をわかってくれる存在)」としてのオカマに寄せる好意とは違う、純粋に性的な興味を持っているタイプの変態が私だ。

 私は、幼少期からスカートにもフリフリのレースにもピンク色にもまったく興味を示さず、思春期に読んでいたのは少女マンガではなく坂口安吾の『堕落論』とかで、20歳過ぎに引きこもっていた頃は家族に隠れて酒を飲みながら深夜ラジオの下ネタコーナーで声を殺して笑うことを唯一の楽しみにしているような、童貞と中二病をこじらせた真面目系クズの男みたいな青春時代を過ごしていた。

 ずいぶん長い間、私は自分の中の女性性にかなり無頓着な人間だったのだけれど、そういう、平均的な少女像・女性像からすれば「ちょっと変」*3な自分のセクシュアリティについて明確に自己分析できるようになり、自分のセクシュアリティと対をなす、二人でひとつの一心同体になれるような恋愛対象が「限りなくオカマに近い異性愛者の男」なのかもしれない、と考えるようになるずっと前から、私はすでにオカマが大好きだったのだ。

 

 だから、いま振り返ってみると、保毛尾田保毛男はいろんな意味で(マイノリティの正義の味方とか、愛すべきロールモデルとしても)、私のヒーローみたいな人だったのかもしれない。

 コントの中で、保毛尾田保毛男が一般人から差別される存在であることは明白な事実として随所で描かれる*4

 しかし、「保毛尾田保毛男の世界」の中では、そういう風にいかにもありきたりでつまらないやり方で保毛男を差別する一般人に、笑いの主導権はない。ここでは、保毛男を差別する一般人というものは、現実に確かに存在してはいるものの、何のおもしろみも持たず便宜的に配置されているだけのチンケな書き割りに過ぎない。

 コントを作っている側が、ありがちな悪口で保毛男を差別してくるつまらない一般人と、複雑な内面を持った主人公である保毛男のどちらに、より深く愛情を注いでいるのかなんて、小学生の私にでも簡単にわかることだった。

 大人になった保毛男は、書き割りみたいにつまらない一般人の悪口を、もはや一顧だにしない。スピンオフシリーズの『保毛太郎侍』に至っては、老若男女を巻き込んでどんどん笑いの主導権を握りながら、ヒーローみたいに大活躍する人になっていく。保毛尾田保毛男は周りからどれほど「気持ち悪い」と言われても、自分がいいと思う仕草や好きなものを変えたりはしないし、そしてそんな、ちょっとわがままだけど上品で優しくて、若い男の子が大好きで、どんなときでもユーモアを忘れない、人間的な魅力にあふれたかわいい保毛男のことを、お姉さんや周りの仲間はみんなで愛しているのだ。

 それが私の大好きな「保毛尾田保毛男の世界」だった。

 

 だけどもう、そんな世界はとっくの昔に消えて無くなってしまっていた。

 同性愛者を揶揄するためだけのモノマネではなく、「保毛尾田保毛男」という名前を持った一人の人間を演じきるために、自身の中に潜むエレガントな女性性を見事に掘り当てて引き出してみせ、本当に楽しそうに保毛尾田保毛男というキャラクターを生きていた、若き日の、あの才気あふれる石橋貴明の姿はもうどこにもない。

 2017年の秋に、魂を持たないゾンビのように蘇った保毛尾田保毛男を見て、嫌悪感を持つ人が一定数いたのは当然のことだ。今回の騒動をフジテレビや番組関係者が本気で反省しているのなら、もう一度、それなりの予算と人力を尽くして保毛尾田保毛男のコントをやり直すべきだ。現代的なリアリティと倫理観の前でも霞むことなく、キラキラ輝くようにかわいくておもしろい、保毛尾田保毛男の本当の意味での「復活」が、一度でいいから見てみたかった。

 でももうそんな夢が叶わないことはわかっている。

 せめてフジテレビには、私の中のもう一人のアイドル、オードリー春日の「カスママ」を傷物にするような真似だけは絶対にしないでほしい…と切に願うばかりなのだった。

 


保毛尾田保毛男(1:24頃~)

 


ミレニアムズ カスママのお店にミッツマングローブが来店 4月13日 Part 1(6:17頃~)

*1:「お前ホモだろ」と言われた保毛男が、「ホモでなくて…。あくまでも噂なの」と返す。

*2:保毛男の姉役である岸田今日子の快演がうれしい。

*3:保毛男の姉が弟のことを指して言うお約束のセリフ。

*4:小学生時代の保毛男が同級生から「やーい、オトコオンナ!」とからかわれたり、おじさんになった保毛男の女性的な仕草や、若くてキレイな男の子が大好きという性的嗜好を、一般人がはっきり「気持ち悪い」と嫌がったりするような「差別的な」場面がゴロゴロ出てくる。

【お笑い各駅停車】第2回 高僧・野々村の思い出と2017年のAマッソ

 8月25日は『ワンダーウーマン』と『エル ELLE』の日本公開日だった。
 どちらの作品も女性が主人公で内容も興味深く、観るのを楽しみにしていた。公開翌週の水曜レディースデイに映画館へ足を運び、この2本を立て続けに観たが、どちらも大変おもしろくよくできていて、特に『エル ELLE』の複雑な味わい深さといったらない。本当に素晴らしかった。

 私はこれまで、自分や他人が「女性である」ということをそれほど真剣に(あるいは深刻に)考えてきたことはなかった。それでも、まったく考えたことがないわけではなく、非常にぼんやりとではあるが、折に触れなんとなく考えてみることはあったので、夏の終わりに観た映画の余韻と、期待の若手女性コンビ・Aマッソのお笑いを手がかりにしながら、自分が考えてきたことを少しずつ書いてみたい。

 

【必聴】Aマッソ漫才「へその緒」、48:30頃~【傑作】 


爆笑問題の日曜サンデー 2017年07月23日

 
 若い頃に女性の問題をしっかり考えてみることがなかったのは、個人的な事情で、私は自分の性別を云々する以前に、まず自分の人間性の諸問題で逐一つまずき、悩む期間が長かったからだと思う。極度の怠け癖のため学校に行かなかったり風呂に入らなかったり(いじめられたりはしなかったが、もしかしたら小児鬱だったかも、とは思う)、家族や親族間の軋轢が嫌だったり、女子・男子問わず多くの同級生と普通に話せなかったり、というような問題についてクヨクヨ悩むことに明け暮れ、女性問題を考えるところまで手が届かなかった、という印象だ。
 今となっては、自分や他人の人間性を考えるということの中に、同時に、自分や他人の女性性/男性性を考えるということが含まれる(それらは互いに複雑に絡み合っている)のだと思えるが、若い頃は、性差や恋愛や性愛の問題は、基本的な人間性の問題をある程度クリアした人にだけ許される高次元の応用問題なのだ、と漠然と感じていて、自分にはまだまだそういう問題を考える資格がないのではないか…とずっと長いこと思っていた。
 そんな頓馬な人間だったが、曲がりなりにも生きているとある日突然、思いもよらない恋に落ちたり、いつの間にか愛の入り口に立ったり、挙句の果てには憎しみの底を這ったりするような日々が訪れては過ぎ去り、そうこうして中年になったいまようやく、一応自分も属する側の「女性」のことをしっかり考えてみたいという気持ちになっている。

 

 それにしても、Aマッソのお笑いに初めて触れた時の衝撃を何に例えればいいだろう。あんな風に鮮やかでフレッシュで、味わい深いのにオフェンシブなお笑いは、確かにあの偉大な先達「笑い飯」の正統な後継だとも言えそうだけれど、その魅力はそれ以上に、単なる後継には留まらない何かを秘めた美しい兵器みたいに危なく輝いている。

 彼女たちは言うまでもなく、いわゆる「女芸人」という枠組みの中に納まりきらない。柳原可奈子横澤夏子が得意とするような、身近でイラッとくる女の生態を丁寧に揶揄した「女子あるある」みたいなネタをほとんどやらないし、オアシズやモリマンや森三中ハリセンボンなどのように、「ブスな女」であることを強みにして、美醜を逆手に取った肉体芸(顔面芸)込みで這い上がってきたわけでもない。あるいは逆に「女性性に囚われるのではなく、ブスでもデブでも根暗でも、とにかくポップに克服して女性性を謳歌せよ」というポジティブなメッセージほとんど一本で、あれよあれよと大舞台に立ち続けている渡辺直美ブルゾンちえみのようでもない。
 Aマッソは、特筆すべき外見的特徴もキャラもクセも持たず、女という性的属性をわかりやすく顕示することもせず、ただひたすらおもしろいネタをやるだけだ。そしてなぜか、そういうある意味でシンプルなお笑い芸人は「女芸人」の枠の中にはほとんどいない、稀有な存在であるということになってしまう。

 外見的特徴やキャラやクセに頼らずネタのおもしろさで勝負する男芸人なら枚挙に暇がないし、また、そもそも自らの性的属性をあえて顕示して笑いをとろうなどという男芸人は、そっちのほうが少数派*1だろう。

 お笑いの世界における、この男女間の格差はいったいどうしたことだろう。これは、「女性というものは根本的にお笑いのネタを考える能力が低いか、もしくはそういう能力のある人が少ない」などという問題ではないと思う。そんな女性脳とか男性脳とかいう根拠のあやしい疑似科学で解決できるような問題ではなく、おそらく、フェミニズムの歴史とお笑いの歴史を同時に遡り、「男女雇用機会均等法以前の海原千里・万里」とか、「女性参政権獲得以前の内海桂子」とか、「家父長制と日本エレキテル連合」とか、「性的搾取とパイレーツ」とか、「腐女子文化とおかずクラブ」とかとかとか、本当はそういうところにまで話を持っていかなくてはいけない類の問題なのだ。…のだけれど、ぼんやり生きてきた私には残念ながらフェミニズムの知識が乏しく、ここでそういう話をすることはできない。


 その代り、ぼんやりした私の頭になんとなく浮かんできたのは、在りし日の高僧・野々村の思い出だった。
 高僧・野々村が世に出た1990年代の関西地方では、現在より数少ないながらも他にトゥナイトや海原やすよ・ともこなど、人気と実力を兼ね備えた若手女性漫才コンビが活躍していて、漫才の内容や存在感は三者三様のものだったと思う。
 トゥナイトの漫才は正統派のおもしろさ。平均的な若い女性にまつわるあれこれ(美容・恋愛・家の門限・結婚・将来の夢など)を題材に、ベタではあるが高い技術力とキャラの華やかさが相まって、見ごたえのある健全な漫才を完成させていた。
 海原やすよ・ともこも、ネタの題材はトゥナイト同様「若い女の子ならでは」と言ってもらえるようなトピックを多く配していたが、彼女たちのほうがよりストリート感が強く、年配者には真髄を理解されにくいような、粗漉しの魅力があった。
 そして懸案の高僧・野々村である。高僧・野々村は、見た目*2も漫才のスタイル*3も、ほぼまんべんなくダウンタウンに似てはいたが、表面的なことだけではなく才能のレベルまで似ていたので、単なるフォロワーに成り下がることなく独自のお笑いを実現できていたのだと思う。もちろん、性別が違うということも大きかっただろう。

 私は、女芸人が女性性を完全に封印して男芸人とまったく同じ内容のネタをやるべきだ、と考えているわけではない。だいたい、そんなことをしても大しておもしろくない。
 高僧・野々村とAマッソに共通している美点は、ネタを構成するエレメントの種類が多様*4であり、さらにそのエレメントの配合具合が絶妙であるところだと思う。彼女たちの漫才は、自分たちが女性であることに由来した成分と、それ以外の多様な成分で構成されていて、彼女たちを見ているとおそらく彼女たちにとってそれらは、ほぼほぼ等価で等しくおもしろいため、ことさら女性であることを顕示する必要がないのだと思える。

 そしてそういう風に、記号化された女性性のイメージを寄せつけない人たちだからこそ逆説的に、これまで語られてこなかった「女性の最深部」とも言えそうな本質的な部分をさりげなく、しかしそのもっとも複雑な部分を複雑なまま、鮮やかに抉り取ることができるのではないだろうか。
 たとえばAマッソのふたりから「オークル」*5という言葉が発せられる時、または、男言葉に近いキツめの関西弁で「視力4.0の男に毎日泣かされる辛い恋愛」が語られる時の快感といったらない。これまでさんざん語り散らかされてきたありきたりな「女あるある」の向こう側にある今様女の本質が、極めて特殊なやり方で痛快に語り直されるのがおもしろすぎて、私は感心しながらめちゃくちゃ笑ってしまうのだ。


 Aマッソの加納さんは爆笑問題のラジオで「ライバルは尼神インター?」と聞かれた時、その誘い水に応じることなく「ライバルは(尼神インターだけでなく)PUFFYもあみんも、二人組は全部潰したい」などと答えをはぐらかしていて格好よかった。Aマッソと尼神インターはそれなりに近い位置にいるのかもしれないけれど、たぶん笑い飯と千鳥ぐらいには違っているから、そういう普通の質問に普通に答えないところが本当によかった。

 

 2017年なんていう数字、昭和生まれの自分からしたら相当に未来感があるのに、女性一般の立ち位置にはまだまだ革新的な変化が訪れていないように思えることのほうが多い。別に変わらなくていい、という人もいるだろう。しかし、劇的な変革を望まないまでも、各方面で女性の在り方をめぐる現状への違和感を表明する声が聞こえてくるのは確かだ*6。脳内がほぼ「恋愛感情」「母性」「スイーツ」「青空の写真」みたいな構成要素だけで説明できるような女ばかりではないというあたりまえのことを、これからもいろんな人がいろんなやり方で提示していくだろう。そしてそのことが、人間全体の表現活動の幅を広げ、表現の自由度とクオリティを高めていくことにもなるのだと思う。
 Aマッソはきっとその急先鋒に立って、いたるところで爆笑を生みながら、女性とお笑いの両方の未来を豊かなものにしていく最高の二人組なのだ。

 

*1:私には瞬間メタルの男のコント、アキラ100%の裸芸、レイザーラモンHGハードゲイネタ、ぐらいしか思いつかない。

*2:顔面のテイスト。もし「見た目の構成比がダウンタウンに近いコンビ総選挙」みたいなものがあれば、1位はダントツで高僧・野々村だと思う。ちなみに2位はりあるキッズ、3位は2丁拳銃(ものまねコンビ「ダウソタウソ」は参考記録として除外)。

*3:マイペースでシュールなおとぼけ者の繰り言に、やや暴力的な常識人がツッコミを入れる感じのスタイル。

*4:身近なトピックの導入部から斬新な展開への飛躍・ワードチョイスの的確さ・過不足ない演技力・友達に対する思いやり…などなど。

*5:ファンデーションの色味の一種。客観的にファンデーション選びをしたことのある者にしかできないワードチョイスであり、「オークル」の意味を知らない大多数の男性を寄せつけない潔さがあって素敵。

*6:今回の記事を書くにあたっては、もうすぐ発売になる『早稲田文学増刊 女性号』での、川上未映子氏による巻頭言に勇気づけられた。とてもいいことが書いてあるので興味がある人は是非読んでみてください。

【お笑い各駅停車】第1回 努力に執着しない天才、土肥ポン太という男

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特急や快速の止まらない駅がある。
便利で無駄がなく、キレイに整備された主要駅にはない魅力がある。
各駅停車でしか行けない駅のようなお笑いが、いたるところで私を待っている。

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 残暑が厳しいある日の夜の道頓堀、いったいどこから湧いて出てきたのかというほどの観光客や若者の群れの中を、私も歩いていた。気温も湿度も、多言語も寿司待ちの行列も、若い女の口紅の赤さもその女をナンパする男の軽薄さも、何もかもが過剰でめまいがしてくる。なぜ、汗だくになって、こんなにも歩きづらい道を一人で歩いているのか…。私には今日、行かなくてはいけない場所があるのだ。

 「道頓堀 ZAZA HOUSE」で行われた『土肥ポン太単独ライブ』。ネタライブとしてはおそらく8年ぶり(Wikipedia調べ。ポンちゃん本人も何年ぶりだか覚えておらず)だということで、いま現在のポンちゃんのお笑いに触れる機会を楽しみにしていた(余談:杉作J太郎先生のことを心から敬愛している私だが、同日同時刻に「ロフトプラスワンwest」で行われた『Jさん&豪さんの世相を斬る!in 大阪 vol.8』を泣く泣くあきらめて、今日に限ってはポンちゃんのネタを見ることを選んだ)。


 土肥ポン太のお笑いの魅力を言語化して説明することほど難しく、また不毛なことがあるだろうか。

 天才であり、年季の入ったお笑いマニアでもある松本人志が相手なら、多くの人々が彼のお笑いの革新性や特異性や普遍性について語る言葉を持っていた。そもそも松本自身が「お笑い」に関してなら他の追随を許さないほど優れたアナリストでもあるのだから、その洞察力と分析力とセンスに裏打ちされた数多の作品の背景には、誰もが言語化したくなったり同じ道を追随したくなったりするような、魅力的で強固なロジックが潜んでいて当然なのだろう。

 いっぽう土肥ポン太という男は、今日もほとんどセンス一丁で板の上に乗っていた。ポンちゃんの同期で大の親友だという理論派芸人・小籔千豊がかつて語ったように、ポンちゃんには、センスを煮詰めてロジックに昇華させることや、大勢に認められるためのわかりやすい技巧を凝らすこと、などへの欲求がほとんどないように見える。面倒くさいのか、なんなのか。


 「(芸人としての世間的な評価は高くないが)一般職では常に高く評価され続ける人生だった」、とポンちゃんは自ら語っている。スキヤキ解散後、芸人としての仕事がほとんどなくなるも、生活のために就いたキャバクラの客引きのバイトで月40万稼いだり、歩合制で野菜を行商する八百屋のバイトで驚異的な売り上げを達成し、八百屋の大将をして「お前は八百屋界のイチローや!」と言わしめた伝説があるらしい。
 天が与えた稀代の童顔、下心を感じさせないナチュラルなサービス精神など、客商売に有利なスペックをいくつも兼ね備えているポンちゃんであるが、特筆しなくてはいけないのは、物やサービスを売り込む立場の人間でありながら「押しつけがましさ」というものを絶妙に回避するポジション取りのうまさ、についてである。ポンちゃんが誰かと喋っているところを少しでも聞いたことがある人なら、その会話におけるポジショニングが、例えばシャビとかイニエスタ並みに巧みなのだということがわかるだろう。

 ポンちゃんは努力やロジックの押し売りをしない。ただ、人の「有り様」や「間」というものを誰よりも精緻な目で、冷徹なほどによく見ている。そして彼にはそれを見ているだけで、凡庸な論者がいくら言語化しても到底追いつかないほどに複雑なあれこれ――有り体に言えば「人間の業」のようなもの――が見えてしまうのだ。普通の人の目には見えないあれこれを驚くべき速さで見切ってしまえば、あとはその一つ一つに丁寧に対応するだけでいい。きっとそんなやり方で、ポンちゃんは男性客をキャバクラへ導き、おばちゃん達に野菜を売り続けてきたのだろう…、などと私は推測している(余談:現在では人間だけでなく「自然」とも向き合い、農業でも成功を収めている、とのこと)。


 さて、ポンちゃんのそういうユニークな商才についての考察はこの辺にしておいて、いいかげん、「芸人・土肥ポン太」の魅力について、考えていかなくてはいけない。

 ネタライブのワンコーナーで、ポンちゃんはついに落語にも挑戦。見るからに怪しい風体の「格好田つけ男(かっこだつけお)」という人物に扮して、古典ではなく(当たり前だ!)ポンちゃんオリジナルの落語を披露してくれた。

 職にあぶれた「格好田つけ男」は、職業安定所でもダメ人間ならではのワガママぶりを露呈させ、さまざまな職業の斡旋をその都度下らない理由で固辞し続ける。その結果、つけ男の提示した条件に奇跡的に1件だけ該当したという、謎の仕事(人並み以上の体力やスキルが必須ではないのに日当3万円)を紹介されるのだが…、というようなお話。

 私は個人的に、今回のネタの中ではこの創作落語がいちばん好きで、これからももっともっとポンちゃんの落語を見てみたいと思うほどだった。
 漫才やコントでデビューした芸人が中年になってから落語家に転身することがたまにある。そこまで本格的でなくても、落語好きが高じて、文化人・タレント・ミュージシャンなどが余興として落語を披露することはよくある。そういう人たちはたいてい、まずは「落語っぽい」語り口というものを意識して、元の芸風・現代風の素の喋りではない口調を心がけながら、ある程度デフォルメされた落語家像を「演じる」ものではないだろうか。
 しかしポンちゃんはちょっと違った。落語っぽい語りがうまくできていなかった、ということではけしてない。逆に落語がうますぎる、ということでもない。ポンちゃんの芸風は、これまでもいい意味で、たいていの場合技巧的なものではないが、今回もその例に漏れず、落語的な仕草(右手でドアをノックする動作をしながら、左手で床を叩いてノック音を表現)をやろうとするも、ぎこちなさすぎて失笑を買ったり、肝心の大オチ(サゲ)をトチったりするほどだった。

 ただ、ポンちゃんの落語は単純に、あまりに自然だった。無理をして落語風に大きく転調したりそれらしい装飾を施したりせずとも、いつものお喋りをほんの少しアレンジするだけで、他の誰にも似ていない「ポン太流の落語」というものが初めから出来上がっていた。
 それで私はようやく気づいたのだ。ポンちゃんの芸の基調そのものが、そもそも落語的なのではなかったかと。


 有名な話だが、かつて立川談志は「落語とは人間の業の肯定である」と喝破したという。ここでいう「人間の業」とは、絶対に寝てはいけない状況なのに寝てしまったり、どう考えてもロクな結果にならないとわかっているのにお酒を飲んでしまったりする、どうしようもなさのことだ。
(談志が語る「人間の業」については、詳細なサイト↓  http://blog.livedoor.jp/nekozitagorira/archives/51964742.html 
などをご参照ください。いいことがいっぱい書いてあります)

 これまで、あらゆる場面でいろんな人の「業」を見抜いてきたポンちゃんだ。落語との親和性が高いのは当然のことなのかもしれない。しかしポンちゃんの落語は古典と違って、人間の業を肯定も否定もしないまま、ただおもしろく見せつけて終わる。本当にただただ、おもしろいだけだ。
 人間の業の煮こごりみたいな「格好田つけ男」は、職安から紹介された謎の職場でジワジワと破滅に向かっていくような展開を見せるが、最終的に奈落に落ちることはない。かといって特別な救いがあるわけでもない。
 表面的には明るい笑いを誘うサゲの内容も、よく考えると、「格好田つけ男」の存在を上回る亜空間的な不条理さが、白黒つけずに投げ出されていた。この圧倒的な寄る辺なさはどうしたことだろう。そしてこんなにも寄る辺ないのに、おかしくてホッコリしてしまうのはなぜなのだろう。


 依然として私にはわからないことが多すぎる。ポンちゃんが芸人として売れるためにこれから何をすればいいのかなんて1ミリもわからないし、これだけの長文を費やしても、土肥ポン太のお笑いの魅力を的確に描ききることは絶対にできない。
 そしてだからこそ、誰にも見えない速さで自分だけのポジションを見出し、そこから見える景色を鮮やかに提示するようなポンちゃんのお笑いを、その亜空間を、私もずっと見つめ続けていきたいと思っている。

 


dohi ponta - oyome samba (all that's 2007)


【お笑い】R1「土肥ポン太」2008年


小藪千豊おススメ芸人:松本人志レベルと太鼓判の土肥ポン太を語る


小藪・笑い飯のゴー傑P 2006年06月24日/土肥ポン太の回 ゲスト名越康文



顔味一覧

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顔味とは何か。
「巷で塩顔男子が流行中」だという週刊誌情報が頭から離れず、寝る前に塩顔のことを考え始めたら止まらなくなりました。次から次へ調味料と男の顔が浮かんでは消え、いいかげん頭がおかしくなりそうだったので、冷静さを取り戻すためにも一覧にまとめてみました。
こんなもの、印象批評もいいとこです。でも楽しい。
ここに記したのはあくまでも私の独断と偏見による分類ですので、気になった方は是非、寝る前などの暇な時に、自分だけの顔味を考えてみてください。

 

おもな顔味一覧

【砂糖系】
山田孝之 → 黒糖
山田涼介(Hey!Say!JUMP) → 上白糖
・伊野尾慧(Hey!Say!JUMP) → はちみつ
斎藤工 → ハニーマスタード
砂糖系は普通に甘い顔の人が並びます。
山田孝之は「ちゅらさん」のイメージに引っ張られている感もありますが、野性味という点で黒糖、山田涼介はとても整ったキレイな顔立ちなのになぜか安っぽいので上白糖です。
伊野尾さんはめちゃくちゃ甘くて、童顔なのにエロいところがはちみつで、エロ師匠の斎藤さんは甘さにひねりを加えて個性派を目指した結果、汎用性の低い調味料になっている感じがハニーマスタードです。

【塩系】
綾野剛 → 瀬戸内海の藻塩
加瀬亮 → アルプスの岩塩
星野源 → 塩麹
塩系の人は探せばもっともっといると思うのですが、すぐに思いつかなかったので代表的な人だけ挙げてみました。
綾野剛には海のミネラル的な滋味、加瀬亮にはもっと乾いた硬度の高さみたいなものを感じます。
星野源は普通の塩よりも粘り気のある顔立ちで、派手さは無いながらも塩を越えた多才さでマルチに活躍する感じが塩麹です。

【酢系】
山内惠介(演歌歌手) → 穀物
・坂口健太郎 → 白ワインビネガー
松山ケンイチ → ポン酢
柳楽優弥 → 黒酢
「酢顔」というジャンルの最右翼が山内さんです。この人はたぶん動物に例えると「キツネ顔」ということになるのでしょうが、実際に比べたら本物のキツネは山内さんよりだいぶ甘い顔をしていると思います。酸っぱさでは山内さんの圧勝です。
坂口健太郎の顔のことはまだ迷っているのですが、若干のフルーツ(ぶどう)感を信じて、一応白ワインビネガーにしておきます。このフルーツ感というものはどうしても若さと関係してくるので、ある年齢に達すると松ケンもポン酢ではなくなってくるのかもしれませんが、まだ私にはわかりません。
松ケンが酢(柑橘類の果汁)に醤油を混ぜた調味料なのは、私の中でどうしても「醤油=主役」という印象があるせいかもしれません。詳細は【醤油顔】の項で触れると思います。
柳楽優弥の顔はとても難しかったです。山内さんを穀物酢だと思った当初、穀物酢顔が居るんだったら黒酢顔もどこかに居るはずだと思いつつもすぐには思い浮かばず、空いていた黒酢の席に難解な柳楽優弥を置いてみたらわりとしっくりきた、という流れです。とてもコクのある顔なのに、目だけはしっかり切れ長なところに酢を感じます。

【醤油系】
堤真一 → 醤油
役所広司 → たまり醤油
西島秀俊 → うすくち醤油
実は「醤油顔」というのはどういうものなのか、感覚的にはいまだによくわかっていません。顔を調味料に例える風潮は80年代に阿部寛が登場したときに、阿部寛を「ソース顔」、少年隊の東山紀之を「醤油顔」と表現したのがルーツなのかなと思いますが、ヒガシは現在の私の分類では完全に「酢系」の顔になってしまいます。
自信はないながらも、醤油系にはオーソドックスでクセや甘味の少ない男前が並ぶ結果になりました。顔のバランスとしては、三代目J Soul Brothers の登坂さんくらいの感じがかなり醤油っぽいような気がします。
醤油系はそつが無くて、主役やグループのセンターに向いた顔だという印象なので、松ケンにも半分くらい配合してある調味料ですが、単純な醤油枠に留まる顔の人はやっぱりちょっと面白みに欠けるので個人的にはあまり興味が湧かず、醤油系の細分化に関してはわりとどうでもいいのですが、薬味を入れると面白くなってきます(下記)。

【薬味醤油系】
佐々木蔵之介 → わさび醤油
時任三郎 → からし醤油
東出昌大 → しょうが醤油
佐々木蔵之介の顔は最初、二杯酢とかかなぁ、と思っていましたが、よく考えたら酢ではなく、ちょっと青みがかって鼻にツンとくる辛みがあるような気がしてきたので、わさびを入れておきました。
時任三郎は、斎藤工からの連想です。甘味のない黄土色の練りがらしを、濃口醤油に溶いたらもう、それは時任三郎以外考えられなくなりました。
東出の顔はたぶん、この一覧の中でもっとも難しいです。今でもこれが正解なのかぜんぜん自信はありません。ただ、めちゃくちゃハンサムなのに、いつまでも絶妙な朴訥感を湛えていて、演技はけしてうまいとはいえないけれど、全体的に体に良さそうなところがしょうがなのかなと思っています。

【魚醤系】
春日俊彰(オードリー) → ナンプラー
・D-Lite(BIGBANG) → ナンプラー
小峠英二(バイキング) → ニョクマム
魚醤系の顔は人によって好き嫌いが別れるかもしれないけれど、一度ハマったら抜け出せない強烈な魅力があります。個人的な偏見ですが、性欲の強い女の人は、魚醤顔男子を好む傾向があると思っています。そういう魅力です。

【味噌系】
大森南朋 → 合わせ味噌
新井浩文 → 田舎味噌
濱田岳 → 白味噌
三浦大知 → 甜麺醤
味噌系は、素朴な魅力で一見ホッとするような顔ですが、中身はかなりの達者揃いとなりました。
三浦大知の顔は私にとっても難しくて、甜麺醤が正解なのかはまだ自信がありませんが、コクと香りの強さ、オリエンタルな甘みなどを感じる、麻婆豆腐に入れたくなるような顔です。

【みりん系】
高橋一生 → 本みりん
駿河太郎 → 本みりん
鈴木亮平 → みりん風調味料
高橋一生はあんなに痩せているのに、とても「まろやか」なのがすごいと思います。みりんとして一流です。
鈴木亮平が「みりん風」なのは、私が鈴木亮平のことを一段格下に見てしまっているということもありますが、逆にその努力を評価してのことでもあります。演技力の乏しさを補う、肉体改造や語学習得といった努力と工夫でそれなりのポジションを獲得していった感じが、酒税法との関係で以前はスーパーに置けなかった本みりんの代替品としての「みりん風」的存在感に重なりました。

【スパイス系】
小栗旬 → 胡椒
森山未来 → 山椒
藤原竜也 → 花椒
スパイス系も個人的にはあまり興味が湧かないのでまだあまり掘り下げて考えていないのですが、探せばいろいろな「雰囲気イケメン」が並びそうな予感だけしています。演技のクセが強めな人が多いのかな、という印象です。しばらく見つからなかった花椒を探していたら、意外と藤原竜也がしっくりきました。華やかでいい香りのスパイスですが、パフォーマンスが派手なため、入れすぎると他の素材まで台無しになってしまう感じが花椒です。

【だし系】
中井貴一 → かつおだし
能見篤史阪神タイガース) → こんぶだし
中村芝翫 → かつおとこんぶの合わせだし
だし系のポイントは上品な上澄み感です。有り体に言えば「公家顔」というものに近いのですが、「公家顔」の中には「和三盆顔」(尾上菊之助)などの甘味顔も含まれるので、だし系はだし系としてきちんと区別しておきたいところです。
素材をそのまま潰して作る味噌系とは対照的な魅力となっていますが、味噌系もだし系もそれぞれに色気があって素敵です。

※「ソース顔」に関してはあまり知識がないので、今回は割愛しました。


【番外編】
菅田将暉 → トマト
菅田将暉は昨今の活躍がめざましすぎて、ついに調味料の枠を超えて素材にまで還元されてしまいました。トマトは、ケチャップにもなるし、トマトソースにもトマトペーストにもドライトマトにもなるしで、調味料としてのポテンシャルが半端ではありません。汎用性においては「塩系」がダントツではあるのですが、幅広い役柄をこなせるだけでなく、どんな役を演じてもトマトにしかない個性と存在感を発揮してしまう感じが、塩にはない魅力になっています。

新田真剣佑 → マダガスカル産バニラビーンズのバニラエキス
個人的に、現在存命中の日本人俳優でいちばん美しい顔だと思うのが真剣佑です。この人に限っては、「イケメン」という言葉ではなく「美男子」という言葉を使わなくてはいけません。美しすぎて、そこいらの調味料には該当しないなぁ…と悩んだ挙句、味ではなく香りが甘いという高級バニラになんとか辿り着きました。


【応用編~グループで考える顔味~】
俳優さん単体で考えていると、ネタ切れの壁にぶつかって何も顔味が思いつかなくなる時期がきますが、そんな時は自分の好きなグループのメンバーを思い浮かべてみましょう。いい感じに相対化されて、かえって各々の個性が際立ち、顔味のインスピレーションが湧きやすくなってきます。

(例)『池袋ウエストゲートパーク』メンバー
長瀬智也 → 焼肉のたれ
妻夫木聡 → すき焼きのわりした
窪塚洋介 → クレイジーソルト
坂口憲二 → バルサミコ酢(25年物)
長瀬智也も若い頃なら美しすぎてどの調味料にも該当しない感じでしたが、最近は少し崩れてきたのでなんとかなります。ちょっとバカっぽいけど間違いなくおいしくて、女性に限らず男性からの人気も高いところが焼肉のたれです。
妻夫木の優しさ、それは「わりした」、という感じです。甘味の強い主役顔。
クレイジーソルトとは、岩塩と6種類のハーブ(胡椒・玉ねぎ・にんにく・タイム・セロリ・オレガノ)をブレンドした調味料です。塩とハーブの組合せが、窪塚洋介のあの不思議な清涼感のある顔にピッタリだと思います。「クレイジー」なのは偶然の一致です。
個人的に、坂口憲二の顔はもうめちゃくちゃ好きです。私は松ケンのこともめちゃくちゃ好きなので、好みが小雪と似ているのかもしれません。そしてこれも偶然なのですが、【酢系】の項に書いた同姓の坂口健太郎もブドウを使ったお酢でした。健太郎の爽やかさはとてもいい、しかし、野性味・熟成度・ポリフェノール含有量、のすべてにおいて、健太郎よりも上を行っているのが憲二なのだ、ということになります(当たり前だけど…)。

ドラマの感想文/あなたのことはそれほど 第9話+最終話

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・「あなそれ」第9話
 

 第9話はホントに良かった。今までの、全体的にダサい演出とか東出のキモい演技とかに挫折せず、ガマンして見続けた甲斐があったというものです。

 9話は、サブキャラだった人たちがそれぞれに心情吐露する見せ場があって、群像劇的にエモいところが私の特に好きなポイントです。追い詰められた弱者とかマイノリティ側の人(しょこたんとか育三郎)が、正義を貫いているかに思えていた人(仲里依紗とか東出)の側に冷や水をぶっかけるようなシーンが痛快でした。

 あとやっぱりキャスティング。ネット上でモンスター化する自己評価低めの専業主婦を、若い頃にはブログの女王としてネット民を牽引するような一時代を築いたこともある、中川しょこたんに演じさせようと決めたキャスティングの人は偉い。そしてしょこたんもそれに報いる演技をしていたと思います。

 山崎育三郎演じる小田原のことは、私は第1話からゲイだと思っていました。無邪気な異性愛者カップルの振る舞いを見つめるじっとりとした視線に、ただならぬものを感じたからです。山崎さんのことは今までよく知らなかったので特に期待もしていませんでしたが、あのような新種の目ヂカラとか、東出に想いを寄せながらも自身はけして報われないことを知っている切なさとか、女の嫌なところを軽蔑する時の憎々しい顔とか、ミュージカル俳優らしからぬ繊細な表現をいろいろとされていてとても良かったです。

 東出のキャスティングには最初違和感しかなかったけど、今となっては、東出本人の中に潜む独特のキモさ(人としてダメなところがなさすぎて逆にキモい)が、今回の役に重なる部分があることがわかり、また、今後の東出の俳優活動の幅を広げてくれたという意味でも、100点満点ではないが合格点はクリアしただろう、という気持ちに落ち着いています。

 波瑠ちゃんについては、まず麻生さん(お母さん)と顔がそっくりなのがすごい。「男好きの血は争えない感」に説得力を与えています。演技面では、友人の忠告を無視して不倫したり、あっさり不倫がばれたり、夫のキモさに戦慄したり、自分のことで職場に迷惑かけたりと、いろいろ大変な事態になっているのに、波瑠ちゃん演じる美都という人は、終始すっとぼけた無自覚なユルふわ感を振りまくばかりで、なんとまあ一本調子だなー、と思っていましたが、それも今になると長い長い伏線だったのだな、という気がします。

 9話のラスト、ボロアパートの古畳の上で安い蛍光灯の光に照らされ、陰性を示す妊娠検査薬を握りしめながら空っぽになって寝転んでいる美都の顔の、なんとまあキレイなこと!この顔はもはやユルふわではありません。恋と罪の味に溺れ、ついには人生の底に溜まった辛酸をはじめて舐めることとなった女の子はもう女の子ではなく、妖しく憂いを帯びた一匹の、女という美しい化け物に変身を遂げたのです。
 

 エンディングにはいつもCQCQというよくわからない曲がかかっていますが、第9話のエンディング、私の心の中のBGMでは、東京事変の「化粧直し」が流れていました。「本当のひとり」状態を体感したあとの美都がこれからどういう選択をするのか、第10話はおまけのようなものだと思うけれど、最終回を楽しみにしています。

 


東京事變 化粧直し

 

・「あなそれ」最終話

 

 最終回、私が思っていたよりも美都さんは相変わらずマイペースを保ったままでしたが、それなりにおもしろく見ました。

 ドラマの初回から中盤あたりまでは、美都さんの言動や思考回路が自分とは違いすぎて、見ていてイライラするくらいの時もよくありました。具体的に何が違うのか、私は深く考えていなかったけど、最後に東出演じる涼ちゃんがズバッと言ってくれました。

 美都さんという人は「自分を肯定することにかけては天才的だよね」と。

 そう言われると、すべてが腑に落ちてよくわかる気がしました。ナチュラルに自分を肯定できる人は、がむしゃらに勉強したり、仕事にのめり込んだり、自分だけの趣味を突き詰めたり、いろいろなこと・些細なことにこだわったりしなくても生きていける。特別なこだわりや葛藤も「それほど」ないくせに、(だからこそ)平気な顔でいられる無神経さに、もしかしたら私はイライラしていたのかもしれません。

 しかし、私も最近は自分を肯定するということがどういうことなのか、感覚的にわかってきたので、わりと平気な顔をしていると思います。

 

・「あなそれ」追記

 

 最近またいいなと思っているBlock.b(韓流アイドル)の曲をいろいろ聴き直して歌詞の和訳を検索してたら、「몇 년 후에(A few years later)」という曲の歌詞がめちゃくちゃいい、ということがわかりました(気づくのが遅い!)。これは本当に本当に名曲です(「ZICO様は天才!」なんて今さら…)。こんなにメジャーなアイドルの歌でこんなにしみじみ泣かされるとは思っていませんでした。歌詞を全部引用したいけどやり方がわからないので、興味があれば検索してみてください。[※Block.bが日本語で歌っている「Japanese Version」も存在しますが、そちらの歌詞はイマイチなので、原曲(韓国語)の和訳をしているサイトをご参照ください。]

 「あなそれ」の涼太に関しては、あえて多くの人が感情移入しづらいようなホラー的な演出がされていたけど、彼の立場に立って、サイコ感を薄めてもう少し美化したら、こういう歌になったりもするのかな、と思いました。


블락비(Block B) - 몇 년 후에 (A Few Years Later) MV

映画の感想文/ニンフォマニアック

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 Mさんへ

 

 『ニンフォマニアック』観ました。

 結論から言うと、メチャクチャおもしろかったです。観ている最中もずっとおもしろかったけど、見終わったあと、日常生活の中でもふとした瞬間にこの映画についての感想が湧き出てきたり、関連するような過去の思い出が蘇ってきたりして、セクシャリティや女性の問題について深い考察を始めたくなるような糸口が満載なのです。スリリングなのに味わい深く、大胆さも繊細さも嫌がらせのクオリティも超一級の、見事なラース・フォン・トリアー映画でした。

 この人の作品はいつも賛否両論が激しくて、嫌いな人はものすごく嫌いなようですが、私は基本的にラース・フォン・トリアー監督の映画はわりと好きな方です。振り返ってみると、『奇跡の海』『ダンサー・イン・ザ・ダーク』『ドッグヴィル』『アンチクライスト』『メランコリア』と、主要な過去作をけっこう観ています。
 それでも、この人の映画はいつも悲惨な結果に終わったり、観る人を心底ドンヨリした気持ちにさせるものが多いので、なかなか胸を張って「大好きだー!!」と宣言できるような作品は無かったのですが(『奇跡の海』はそれでも好きな方で、VHSの時代にビデオを何回も観ました)、『ニンフォマニアック』はラース・フォン・トリアーのフィルモグラフィの中でいちばん好きな、そして全映画の中でもかなり上位に入るぐらい、好きな映画になりました。

 ご存じだったかどうか、『ニンフォマニアック』はVol.1とVol.2の2巻に分けての上映で、なんかいろんなバージョンがあるみたいなのですが、私が見たのは、それぞれ2時間ほどの尺で2巻合計4時間ちょっとのものでした(たぶんいちばんシンプルなバージョン)。見る前は、「4時間もあるし、なんだか疲れそう…」と思っていましたが、見始めたらそんなことはぜんぜん気にならなくなり、映画が全部終わった時には、ものすごく自分好みの味のおいしい食べ物を食べた時のように興奮して、かえって元気が湧いてきました。

 なにしろ4時間もある上に、映画の内容もかなり濃いめなので、どこからどう感想を進めていけばよいのか途方に暮れてしまいますが、とりあえず断片的にいろいろ書いてみたいと思います。

 主人公は現在50歳くらいの中年女性、ジョーシャルロット・ゲンズブール)。彼女は若い頃から性的に奔放というか、奔放を余裕で通り越して、自身でも「色情狂(ニンフォマニア)」だと認めるほどの気質と性遍歴を持つ、孤独な女の人です。物語の冒頭、顔をメチャクチャに殴られ路上で気を失って行き倒れているジョーを、通りがかりのとある老人が見つけます。ジョーを心配した(ジョーに興味を示した)老人は、彼女を自室へ連れ帰り、手当てをしてやってから、「なぜこんなことになったのか、訳を聞かせてほしい」と言い、最初は渋っていたジョーがだんだん重い口を開いて、この類まれなる女の人生と、めくるめく性の冒険譚が語られていきます。

 「めくるめく」と書いてはみたものの、彼女の性の歴史はそんなに明るく楽しいポップなものではなく、気まずさ・痛々しさ・寂しさ・悲しみなどの暗い気持ちといつも隣り合わせなので、濃厚なセックスシーンがたくさん出てくるのに、観ている私は通常の性的興奮をほとんど覚えることなく、つらくて複雑な心境で男優と女優の絡みを眺めるばかりでした(何十人もいるセフレとの気安いセックスを純粋に楽しむシーンも少しだけありますが、そういう平和なシーンはつまらないからなのか、あまり時間を割いて描かれません)。

 セックスシーン以外でも、精神的につらいシーンや気まずいシーンがたくさんあるので、「気まずいシーン恐怖症」である私の夫なら、この映画の半分以上は見てられなくて目を背けているんじゃないかと思います。

 そんなにつらいシーンが多いのに、なぜ4時間もずっとおもしろく見続けられるかというと、つらいシーンの合間に、けっこう笑えるシーンも多くあるからです。ラース・フォン・トリアーの映画でこんなに笑えるなんて思ってませんでした(余談:今回の『ニンフォマニアック』は直近2作の『アンチクライスト』『メランコリア』と続けてきた”鬱3部作”の完結編と位置づけられています。監督自身が2009年頃まで数年間鬱病を患ったことがきっかけで、これらのシリーズを撮ることになったそうです。他の2作品と比べて『ニンフォマニアック』は笑えるシーンがダントツで多いので、トリアー監督の鬱病はだいぶ軽くなってる感じがします)。

 また、そもそも映画全体の構成がうまい。この長い物語は全部で8章のパートに分けて語られていきます。ジョーが昔のことを回想している間はその時々の、当時の場面が映し出されますが、一つの章を語り終えると現在の場面(老人の部屋で50歳のジョーが話している)に戻り、ジョーと老人の対話が毎回いい感じのインターバルとして機能します。
 老人は、ジョーが語った過去の回想について質問を投げかけたり(映画の観客が抱くであろう疑問点についてもちゃんと聞いてくれるので、かゆいところに手が届く、という感じ)、自己否定し自罰傾向のあるジョーに対して、「そんなに自分のことを責める必要はない」という主旨のことを、幅広い知識(老人はものすごい読書家という設定)と語彙を使って、いろんな言い方で彼女に言って聞かせ、ジョーの肩の荷を下ろす手伝いの人みたいな感じになっていくのです。
 いろいろあり過ぎるジョーの過去の話を聞いているだけでもおもしろいのに、そういう動かしがたい過去の話への興味から、映画の時間が進むにつれてまた違ったおもしろさ――ついさっきまで赤の他人だったジョーと老人が現在進行形で交わす対話と、その対話を経てこれからこの2人の関係がどうなっていくのか、という未来への興味へと、徐々に重心が移動していく感じで、結果としてもう本当にずーっとおもしろい、というわけです。

 トリアー監督の映画はいつも取り上げるテーマが強烈なので、「エンディングが悲惨すぎる」とか「人間の嫌なところばかり描いていて観るに堪えない、観客への嫌がらせ映画だ」などの、根本的な趣味の違いで批判されることが多く、テーマを別にした映画作家としての力量(脚本力・演出力・撮影力・編集力など)を論じられることが一般的には少ないように思います(専門誌ではそういうのもあるのかもしれませんが)。でも私は今回の『ニンフォマニアック』を見て、あらためてその力量がどれだけ確かなものであるかを思い知りました。トリアー監督はきっと、才能がありすぎて生きづらい人なんだろうなー、ともあらためて思いました。

 
 これだけの力量があれば、多くの人が納得できるような穏便なテーマで、最後には感動して明日からの人生に少しは希望が持てるような、米国アカデミー賞級の作品を撮ることなんて朝飯前のようにも思えるけれど、トリアー監督はそんなこと絶対にしたくないのです。自分にとって本当に大切な「映画」という宝物の中で嘘をつきたくない、どんなに残酷だと思われても、自分の考える人間像をそのまま映画にしたい――『ニンフォマニアック』のラスト数十秒は、そんな監督の叫びが聞こえてくるような、これまでの作品の総決算みたいに明瞭なトリアー印の刻印として、人々の記憶に残り続けるものです。
 私は4時間をかけて、もう完全にジョーの感情に移入してしまっていたので、ラストシーンは本当に嫌すぎてビックリしましたが、少し時間が経ったいま振り返ってみると、トリアー監督のやりたい放題やってくれてよかったなー、と思います。


 映画の感想はだいたいこんな感じですが、この映画を見て考えたことは上記の100倍くらいあります。今日はもう書く元気が無くなったので、全部は書けませんが、タイトルだけでも少し箇条書きにしておきます。

 

セクシャリティ関連】

 

・女っつうのは…

 映画を見た後で、『ニンフォマニアック』のことを調べていたら、私と顔が似ている能町みね子さんが同作のことを語っている記事を見つけました。
http://www.cinra.net/interview/201410-nymphomaniac
 能町さんは性自認は女だけどあんまり恋愛体質ではないらしく、主人公・ジョーが性的な快楽を追及しているだけで、恋愛感情に振り回されているわけではないというところが格好いい、という感じのことを言っていました。
 私は自分のことを「女だなー」と思ったことはあんまりなくて、「メスだなー」と思うことはよくあります。なので、私も性的欲求が強い(元気がある時限定)わりに、恋愛感情に振り回されることは少ないほうだと思いますが、まったくないわけではなく、数少ない恋愛経験はそれなりにいい思い出です。
 この辺の、性的欲求と恋愛感情の違い(違いがあるのか、グラデーション上に繋がっているのか)を考えるのはとてもおもしろいので、またいろんな人に話を聞いてみたいです。

 

・本当の性的マイノリティとは…

 ジョーのいろいろある人生の中で、彼女はある時、たまたま小児性愛の嗜好を持つ人物と出会います。彼(50歳くらいの男性)は自分でもそんな嗜好があるなんてこれまで自覚していなかったようなのですが、運悪くジョーに出会い、きっとそんなこと自分でも知りたくなかっただろうに、自分の本当のセクシャリティに気づかされてしまうのです。
 それはジョーが当時従事していた裏稼業の一環で、その人の「本当に怖いもの」を使って相手を脅迫する、というような場面があり、ジョーが相手の「本当に怖いもの」を探っていくと、そこに彼の小児性愛嗜好があった、というわけです。
 ある意味で、彼のこれからの人生を破壊してしまったようなもので申し訳ない、とジョーは振り返り、小児性愛者に対する同情の念も覚える、と言います。
 「実際の子どもに手を出す小児性愛者は確かに鬼畜だけれど、そんなことをする者は、小児性愛者全体からみれば5%程度に過ぎない。残りの95%の者たちは、小児性愛をファンタジーの域に留め、本当のセクシャリティを生身の人間相手に一度も解放することなく、自分の本質を押し殺したまま日々を送り、死んでいくのだ。セクシャリティとは、どう抗っても自分の人生を左右するほど強い力を持ったものなのに、それをひたすら抑制して生きている小児性愛者には敬服の念すら覚える」と、色情狂である自分の孤独が彼らの孤独と重なる部分を認めながら、ジョーは言い切ります。
 この辺のくだりは、普段から私がなんとなく思っていたり疑問を感じていたことを明確に言葉にしてもらえた感じで、ちょっと震えました。
 今までタブーとされてきたような性的マイノリティの問題については、「LGBT」ブームの広がりによって一般社会でも少しずつ理解されていく途上にあるかのようですが、本当に最後まで理解されないのは、こういう小児性愛の問題なのかなと思わされます。善良な小児性愛者の苦悩に比べれば、女装癖とか同性愛とかトランスジェンダーとか、そんなことは、わりと受け入れ可能で取るに足らない話に見えてしまうほどです。
100年後とか1000年後の未来に、人類は小児性愛者をどのように処遇していくのか、そんなことを書いたSF小説を読んでみたい気がします。


【その他雑感】

・精液泥棒
・不倫発覚、修羅場のユマ・サーマンで爆笑
・年下の女には気をつけろ(罪悪感ゼロの裏切り)
・北欧のデスメタルが格好いい
・セラピーなんてくそくらえ
  
 ……などなどです。

 
 一応、重要なネタバレは避けて書いたつもりですが、そんなん知りたくなかった!ってことが書いてあったら申し訳ありませんでした。映画も長くて、人によったら不快を感じるらしい作品ですが、機会があれば是非観てみてください。

さようなら~